2014年11月26日 (水)

山の高みから 谷の深みから

4楽章は下降音型が印象的なハ短調( C mol )の序奏で始まります。第1楽章と同じC mol は、2楽章と3楽章を経て一度は手に届くかに思えた安らぎを否定し、再び死の予感を投げつけます。

序奏の中間部、雷に打たれるような激情ののち、ハ短調の調整はハ長調へ変化すると、やがてホルンによる伸びやかで美しい旋律が姿を見せます。


 これは、アルペンホルンの主題と呼ばれる旋律です。恩師ロベルト・シューマンの死後、その妻であり終生の憧れの人であったクララとその子供たちを連れてスイスに旅行に行ったときに二人で聞いた旋律であり、ブラームスがクララの49歳の誕生日に送った手紙にもこの旋律が記されました。そしてその手紙の旋律には歌詞がつけられていました。

「山の高みから 谷の深みから あなたに何千ものお祝いの挨拶を贈ります」

それは、思い出の地でこの旋律を聞いた二人だけにしかわからない秘密の暗号だったのでしょう。

アルペンホルンとトロンボーンの奏でる序奏が終わり、ハ長調のまま4楽章の第1主題が登場します。その後、音楽は第2主題とその展開に続き、激しいフーガの応酬へ経て、そしてソナタ形式の定石通り第1主題に回帰する。
・・・と思いきや。


彼が戻ってきたところは第1主題ではなく、序奏で提示されたクララへの想い「アルペンホルンの主題」でした。

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死の予感、決して叶うことのない想いを経て、音楽は終結部・コーダへ突入。そして交響曲の最後を迎えて初めて、クララへの想い、その激情は頂点へと登りつめます。長きにわたる苦悩と激情から解放された魂は浄化され、その時きっとブラームスの魂はついにクララのもとに辿りついたのでしょう。

ブラームスはこの交響曲第1番の着想から完成にいたるまで、実に21年の月日を費やしました。この曲は多くの研究者がその内容について研究し解析を行っており、また、たくさんの方々がそれぞれ色々な解釈でこの曲に向きあっていることでしょう。やや偏った見方かもしれませんが、この曲の内面に込められたものは永きに渡って抱き続けた想いであり、そしてこの交響曲は人生をかけた壮大な愛の物語であると、私は感じています。

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さて、本ブログでは10回の更新にわけて今回のDNAフィル第3回演奏会の曲目の解説を私的な見解を交えながらお話ししてまいりました。

序曲・魔弾の射手の物語と音楽をテーマに「呪いの二面性」について考察し、そしてオーケストラとファゴットのための協奏曲「炎の資格」では「ハウルの動く城」を題材に「炎=音に宿る命とその刹那性」について読み解いてみました。そして最後にブラームス交響曲第1番では、「心の浄化と魂の回帰」という視点で曲に込められた想いについて考えてみました。

これらの曲を並べて振り返ってみると、くしくもそこには3つの曲を貫く1つのテーマが隠れていることに気づきます。それぞれの曲に共通するテーマ、それは「命と向き合うこと」であり、そしてそれはすなわち「それぞれの人生と向き合うこと」とも言い換えられます。この3曲は私たちに「今をどう生きるか」という命題を問いかけているのではないでしょうか。

今週末、11月29日午後5時30分より出雲市民会館大ホールにて、DNAフィル第3回演奏会は開催されます。音楽を共にする刹那を皆様とご一緒できればと願ってやみません。どうぞみなさま万象繰り合わせの上お越しください。

2014年11月25日 (火)

想いが届く日 魂の浄化

古代ギリシャの時代、当時は音楽は数学や天文学と並び世界の真理を解き明かすための学問とされていました。「のだめカンタービレ」劇場版でものだめに千秋先輩がこのことについて語るシーンがありましたね。

 当時の賢人たちは、音楽が聴く人間の魂を動かすことの謎を研究しました。ギリシャ悲劇で描かれる苦悩や悲しみを観客が共感し、その苦悩・激情から解放される時に心が揺さぶられ、涙を流す。その結果として抑圧されていた心が解放され浄化される、この状態をカタルシスと呼びます。音楽においても同様にカタルシスを得ることで魂が浄化され、この浄化によって神の領域に近づく、という音楽の意義が考えられていました。音楽は科学であると同時に、宗教学的な側面も強く(むしろそちらの方が強く)持っていたことが伺われます。

 ブラームスもまた、心を揺さぶる音楽を作る力を持っていました。例えば交響曲第4番2楽章のような、魂を揺さぶる音楽を書くことはできたはずです。しかし、それができるにもかかわらず、彼は交響曲1番2楽章の美しい旋律をあえて感動の頂点にまでは持ち上げず、音楽によるカタルシスと魂の浄化に到達させはしなかったようにさえ見受けられます。

 それはなぜでしょうか?

 ブラームスはわかっていたのではないだろうか。クララへの自分の想いが届いて二人が結ばれる日が、決してやって来くることはないであろうことを。想いを伝え、困難に打ち勝ってその愛を掴むことができれば、きっと苦悩してきた心は解放され、その魂は浄化されることでしょう。しかし、決して実ることのない想いは永遠に浄化されることなく、激情の海を漂い続けるしかありません。

 美しさを湛えながらも、決して浄められることのない運命。想いが決して届くことのないこの苦悩は、感情の頂点を迎えることなく夜空を彷徨う旋律となって、この2楽章で奏でられているように感じられます。

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 クララは76歳でその生涯を閉じました。そしてクララが世を去ったその翌年、クララの後を追うようにブラームスもまた静かにその生涯を閉じています。

 ブラームスはクララを想い続け、そして最後にクララのもとに辿りつくことができたのでしょうか。クララの胸に抱かれて、その彷徨う魂を浄めることができたのでしょうか。短い間奏曲風の、ひとときの安寧と不安の影をはらんだ第3楽章を挟み、ブラームスの想いはいよいよ第4楽章へ歩みを進めます。

2014年11月23日 (日)

クララ・シューマン 

ブラームスは駆け出しのころ、自分を認めてもらおうと作曲家ロベルト・シューマンを訪ね、そこで自作のピアノ作品を披露しました。ブラームスの才能を見抜いたシューマンは、これをきっかけにブラームスを大々的に紹介し当時の音楽界に引き上げ世に出すことに尽力しました。いわばシューマンはブラームスの大恩人であると言えます。

クララ・シューマンは、ブラームスの恩人であるロベルト・シューマンの妻。そして当時にして最も高名なピアニストです。

ブラームスがシューマンに出会った翌年ころより、ロベルト・シューマンは精神疾患を患い、そして2年後には世を去りました。この間、ブラームスは献身的にクララとその一家の生活を助けました。当時二人の間で交わされた書簡では、「尊敬する奥様」から「最も大切な 友人」と変わり、そして「最も愛する人」、ついには「愛するクララ」と変化を見せています。 

ロベルト・シューマンの死後、クララとブラームスの関係はどうであったのかは謎のままですが、ブラームスがクララに対して友情以上の感情を抱いていたことは伺われます。ただ、恩人であるシューマンの死が、二人が結ばれることを妨げるなんらかの影響を与えていたこともまた想像に難くありません。

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亡き師の妻への尊敬、深い愛情、そして叶わぬ想い。

交響曲1番2楽章では、そんなブラームスの胸の内を映すかのような美しい旋律が奏でられています。

ところが。僕たちは楽譜を読み、曲を聴き、そして自分たちで曲を演奏してその旋律を再現していますが、この2楽章を弾いていてどうしても心に引っかかることがひとつあります。この美しい旋律を主題に音楽の盛り上がりが描かれているのですが、それが何というか、盛り上がりの頂点に到達することが一度もないままに、この2楽章は終わってしまうんです。

決してブラームスに音楽の感情の頂点を書く技術がなかったなどという意味ではありません。例えばブラームス交響曲4番2楽章のように、抑えきれない感情に満たされて天にかえるような、そんな音楽も聴くことができます。

なのに、ブラームス1番の2楽章には、その感情をあえて抑え込んでいるような、そんな印象を抱かずにはいられません。ブラームスはなぜこの美しい2楽章をあえてこのような形にしたのでしょうか。

次回は、「音楽によって得られるカタルシス」を題材にブラームスがこの2楽章に込めた思いを考えてみたいと思います。

2014年11月21日 (金)

死の予感

ご存知の通り、日本は長寿の国として知られています。。以前厚生省が発表したデータによると、2012年の日本の平均寿命は男性79.6歳、女性86.4歳でした。この数値を全世界で比較してみると、女性に関しては世界1位の長寿、男性では世界5位だとのこと。やはり長寿国ですね。そういえば、病院での仕事のときも70歳の女性を診るときには「あー、お若いですねー」などとついついお声をかけてしまうくらいです。

さて、ブラームスが生きていた1800年代後半、平均寿命はどのくらいだったと思いますか?

なんと、世界の平均ではおよそ30歳、ヨーロッパ主要国では50歳前後だったと言われています。もちろん疫病や乳児死亡も多かった時代であるため平均値をとるとどうしても低くなるのでしょうが、やはり現代に比べて非常に寿命が短かい時代であったことがわかります。ちなみにベートーヴェンは56歳、シューマンは46歳、ドボルザークは62歳で世を去っています。

ブラームスの交響曲第1番は、着想から完成まで、なんと21年の歳月をかけて作られました。21年ということは、当時の平均寿命の約半分弱をこの曲に費やしてきたような感覚であったのではないでしょうか。

そして、この曲の完成時においてブラームスは42歳。平均寿命が50歳の時代におけるこの年齢は、おそらくは少しずつ自分の「死」を意識する歳であったのではないかと想像します(実際にはブラームスは63歳で世を去りました)。

この曲、特に1楽章の中には「死」をイメージさせるモチーフが所々にみられます。

例えば50小節目の弦楽器ユニゾン

https://www.youtube.com/watch?v=n9C5nkWwPxk 3分25秒ころ

(高い)ラ♭→(低い)シ (高い)ファ→(低い)ラ♭

この音の動き。なにか不穏な、不吉な響きがします。
この音の組み合わせは、減七の和音という構成音をつかったフレーズであり、減七の和音とは、苦悩、悲しみ、死を示唆する表現として使われる音形です。

もうひとつ、これは1楽章の中に普遍的に現れるリズムテーマです。

♪♪♪ ♩ (タ・タ・タ、ター)というリズム。

https://www.youtube.com/watch?v=9Ij6I_zhBdU 9分45秒ころ

この形、どこかで見たことありませんか?世界で一番有名なあの交響曲の冒頭で奏でられるアレ。

そう、ベートーヴェン交響曲第5番「運命」のテーマ、「運命の動機」というリズムモチーフです。「何かがやってくる」ことを示唆するモチーフ。

何がやってくるのか?誰が近づいてくるのか?

だ・れ・だ? 

だ・れ・だ? 

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そう。それは、苦悩や悲しみのイメージを背負って扉を叩き、誰もがいつしか必ず向き合わなければならないもの。その半生、いや人生の大半をかけて作り上げた作品の中に、テーマとして自分の「死」を盛り込んでいたであろうことは容易に想像ができます。

1楽章の中に埋め込まれた死のモチーフ。しかしその中にも時折、魂が救われたような安寧に満ちたメロディが聞こえます。次回は、ブラームスの魂の救いとなっていたであろうモチーフについて考えてみましょう。

2014年11月20日 (木)

頑張れ!今市小吹奏楽部!

いよいよ来週に迫ったDNAフィル第3回演奏会。練習も佳境に入っています。

DNAフィルの今年の練習拠点は、出雲市内の今市小学校という伝統校の音楽室です。今回の中プロ「炎の資格」ではなんと13種類もの打楽器を使い、木琴やシロフォン、大太鼓に加えて一度も見たこともないような謎の楽器が登場しますが、今市小学校吹奏楽部さんには練習場所のご提供とともに、これらの楽器の貸し出しにもひとかたならぬご協力いただきました。

この曲を演奏することができるのも、ひとえに今市小学校さんのご助力があってのことです。

そんな今市小学校での練習ですが、先週末の練習ではいつもとちょっと違う光景が見られました。
今市小学校吹奏楽部の子供達が、練習の見学に来てくれたのです。そしてただ見学するだけにとどまらず、部員の中の有志数人(ホルン、クラリネット、コントラバス)が、序曲「魔弾の射手」の合奏練習に飛び入りで乗ってくれたのでした!

おそらくは初めての管弦楽。そして大人に混じっての演奏。数分前に楽譜を渡されたにもかかわらず、少し譜読みをするだけで、すぐにオーケストラの演奏に溶け込んでいきました。普段から非常によく訓練されているのでしょう。指揮棒のニュアンスを瞬時に汲み取り、初めて組んだとは思えない見事なアンサンブルを聴かせてくれました。

今市小学校吹奏楽部は、先日行われたバンドフェスティバル中国大会で優秀な成績をおさめ、全国大会への切符を手にしました。今週末の11月22日に大阪城ホールで行われる全国バンドフェスティバルに出場します!

頑張れ!今市小吹奏楽部!最高の音を全国に聴かせてやってください。
DNAフィルは遠く出雲から皆さんの健闘を祈っています!

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2014年11月14日 (金)

「のろい」と「まじない」

前回の更新では、魔弾に込められたような「呪い」が現代の日常にも一般的に存在すること、そしてその呪いが常に災いをもたらしているわけではない、ということを述べました。

「呪い」という言葉は「のろい」と読むと同時に「まじない」とも読みます。「のろい」という語音は死を暗示する不吉な響きを持ちます。一方「まじない」という語音はむしろ吉を呼び込み生命力を高めるような印象を与えます。「まじない」よりも「おまじない」と言った方がわかりやすいでしょう。「魔除けのおまじない」といった具合です。

呪いは「のろい」か「まじない」か。それは「呪い」をかけられた本人が、その「呪い」をどのように受け止めるか、に依存しているのではないかと思います。

たとえば、他人から一見理不尽な仕打ちを受けた時、どうしてもネガティブな心情から抜け出せなくなっってしまうと、気持ちは内向きとなり、周囲に向かってはマイナスのオーラを放ってしまいます。そのとき「呪い」は「のろい」となり、本人だけでなく第三者をも不幸に巻き込む。

一方、いわゆる逆境に強いメンタルや切り替えのスイッチを持っている人は、理不尽な仕打ちを逆にプラスのエネルギーに転換することができます。ポジティブな心情でそれを乗り越えたとき「呪い」は「おまじない」となって「のろい」を滅する力に変化する。

呪い=理不尽な仕打ち、それ自体が変わるわけではなく、「呪い」の捉え方とそれに対する行動によって、ある者の心は死へ向かい、またある者は災いを振り払って生をつかみ取る。呪いは人の行動のベクトルに作用する触媒であるとも言えます。

 さて、たまには音楽の話をしましょう。「魔弾の射手」の序奏部分はハ長調(C-dur)。1小節目はゆっくりとしたテンポで弦楽器と木管によるC(ド)のユニゾンから始まります(赤枠)。そして5小節目はG(ソ)の音が同じくユニゾンでかなでられます(緑枠)。この小節の間に、ハ長調の決め手となるCの長三度音のE(ミ)は現れません。

ハ長調の調性で始まったにもかかわらず、ハ長調の響きを満たし得ていない、とても不安定な状態です。

その後、9小節目以降でホルンによる明るく美しい旋律が流れ始める前に初めてE(ミ)が現れ、ハ長調だということがわかり音楽の調性が落ち着きます。(オレンジ枠)。ホルンは狩りの時に仲間に合図を送るための楽器。ここで奏でられる旋律は「森のテーマ」と言われていますが、これは賛美歌としても知られています。

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 しかしその直後、明るい森に突然分厚い雲がかかるように、ヴィオラがE♭(ミ♭)、コントラバスがA(ラ)を奏でて暗い調性に変化します(ピンク枠)。ハ長調を保証するEの音が半音下がってE♭になったことにより、ハ長調の明るい調性は急激に陰鬱なハ短調に姿を変えました。この調性の変化は、生命力を高める「まじない」がなんらかの原因によって不吉な「のろい」に姿を変えたことを示唆する場面と言えるでしょう。そしてチェロによるE♭-D-Cという不吉な旋律が現れます(青枠)。

その後、調性記号もハ短調に変化し(紫枠)、速度もmolt vivaceに加速して暗く不吉な第一主題、悪魔ザミエルが現れます。

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molt vivace に入ってからも、短調と長調の旋律が入れ替わり立ち替わり登場します。生命と死が繰り返し姿を見せる情景、それは魔弾に込められた呪いのもつ二面性を表現しているかのように聞こえます。

いかがですか?面白そうでしょ?
どうぞ皆様も会場で、魔弾の「呪い」を味わってみてください。

ここまで、「炎の資格」における音楽に吹き込まれた生命の循環について、そして「魔弾の射手における」呪いと調性について考えてきました。

いよいよ次回は、ブラームス交響曲第1番について考えていきたいと思います。魔弾の射手で鍵となったC(ド)の音が再び登場。魔弾の呪いの影もついてきますよ。

2014年11月13日 (木)

日常に潜む呪い

前回まで、「炎の資格」についてハウルの動く城を題材に考察をしてみました。では、次に今回の演奏会序曲「魔弾の射手」について見てみましょう。

まずは、オペラ「魔弾の射手」のあらすじ。

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 17世紀、ボヘミアの森。二人の狩人マックスとカスパールは、一人の娘アガーテを愛していた。領主の御前で開催される射撃大会で優勝すれば恋人との結婚と保護官後継が認められるのだが、マックスの射撃の調子が悪い。苦悩するマックスに、カスパールが悪魔と取引することで得られる百発百中の魔弾を使えとそそのかす。誘惑に負けたマックスはついに魔弾を作ることを決意。実はカスパールは自分の命と引き換えに魔弾を得ていた。その尽きかけた寿命を伸ばすために、悪魔ザミエルに捧げる生贄としてマックスをつかわそうと企てたのだった。そして二人は7発の魔弾を得る。カスパールは「7発目はマックスと結婚するアガーテにあててくれ」と悪魔ザミエルに頼むが、ザミエルは「7発目は私の意のままだ。生贄はマックスか、カスパールか、それは最期の魔弾を使った時に決める」と言い残して森の奥へ去る。

 射撃大会の日。領主がマックスに「木の上の白い鳩を撃て」と命じられたマックスは運命の7発目を放つ。魔弾はアガーテの胸元へ向かったが、アガーテは森の隠者からもらった白いバラに守られ助かった。代わりに魔弾に倒れたのはカスパールだった。ザミエルを呪いながらカスパールは息絶える。マックスが領主に魔弾の真相を打ち明けると、領主はマックスに永久追放を命じた。そこに森の隠者が現れ、1年間の試練を与え、その行いが正しければアガーテと結婚させてはどうかと助言する。領主はその言葉に従い、マックスとアガーテは永遠の愛を誓い、村人たちは領主の寛大さを褒め称え大団円となる。

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ざっくり言えば、人を呪えば穴二つという日本の諺通り、 羨望と復讐のために悪魔に魂を売ったカスパール自身が呪いの魔弾に倒れる、というお話しです。

「炎の資格」では「炎に魂が宿る」という切り口で考察しました。考この「魔弾の射手」は「弾丸に悪魔の呪いが宿る」という構図だと言えましょう。

呪いとは何か?
私たちの日常生活で、呪いを身近に感じることなどあまりないような気がします。一方で、「炎の資格」考察の題材とした「ハウルの動く城」でも、呪いはまるで日常茶飯事のように登場します。ソフィを老婆にしたのはカルシファーの言うところの「こんがらがった呪い」であり、城の中のテーブルに焼き付けられた荒れ地の魔女の呪い「汝、星を捕らえ者・・・」のくだりでも、「テーブルの傷は消えても呪いは消えない」と語られています。

では現代の日常ではどうか?

例えば、霊柩車とすれ違うとき何気に親指を隠してしまいますよね?親の死に目に会えないから、という理由からです(少なくとも僕の地元ではそうでした)。

お箸とお箸どうしで食べ物を渡そうとすると母からひどく怒られました。火葬の後に骨を拾うやり方で縁起が悪い、という理由からです。

結婚式や棟上げは暦をみて吉日を選びます。

まあ、これは呪いというよりも作法といったほうが適切かもしれません。文化的背景によって差はあるものの、意外なことに呪いや呪いに準ずるものは日常生活の中に普通に転がっているようです。親指を隠す、縁起の悪いものや悪い日を避けるなどの行動は、呪いや災いを避けるための無意識に行っているものであり、無意識で行うということはすなわち様々な呪いが日常生活に浸透していることの証左であるとも言えます。

しかし、生活の中に呪いが日常的にあるにもかかわらず、日常はそんなに不幸で満ち溢れているわけではありません。不吉なことと同じくらい、吉兆も日常に転がっており、呪いが常に災いを蔓延させているわけではないことに気づきます。それは一体なぜなのでしょうか?

そこで次回は、呪いの持つ二面性について、序曲「魔弾の射手」の楽曲構成と照らし合わせながら考察してみましょう。

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注)幸運のシンボルとされている四葉のクローバー。中世のイギリスでの宗教儀式で神に生贄を捧げる儀式をするとき、四葉のクローバーを持っていると悪魔の姿を見ることができ、呪文を唱えて悪魔を退散させることができる、と信じられていたそうです。
四葉のクローバーは呪術のアイテムだったんですね。

2014年11月12日 (水)

「かごめかごめ」と音の魔法陣 

「ハウルの動く城」より。星の子(流れ星)の魔力と死への衝動について前回でお話ししました

結界を巡らせて炎を囲い、炎の力を奪い取る。

かごめかごめのイメージは鬼を囲む結界あるいは魔法陣、鬼に宿る炎は星の子の命であり、逆に炎を宿した鬼の肉体は星の子に捧げられた生け贄と考える事ができるでしょう。

かごめかごめでは、鬼に名前を当てられた「後の正面」の子供が新たな鬼となり、その代わりに元の鬼は結界の一部としてその魂が再生されます。かごめかごめには他の遊びにあるような明確なゴールはなく、日が暮れて子供たちが家に呼び戻されるまでただひたすら命の循環が繰り返されます。

この構図は、囲炉裏を囲む食卓での命を燃やして魂をいただく作法や、日本各地の祭りに伝えられているどんど焼きの儀式にも通じるところがあります。食材(生け贄)の魂は囲炉裏を囲む人々の血肉となって再生し、またどんど焼きでは旧年中に背負った災いを火にくべて神々とともに空に送り返して、その代わりに新たな年の無病息災を授かります。

ともに命あるいは災いを人の輪で囲むその光景は、星の子が魔力を囲う魔法陣の効力を再現しているのかもしれません。

舞台の中心で炎を奏でるファゴット奏者と、その周囲を囲む伴奏オーケストラ。炎を迸らせる薪束にソリストは音楽に魂を吹き込みます。そしてその周囲を星の子が結界を巡らせて炎を囲うオーケストレーションは、音=魂の誕生、そしてその死と再生を統べる魔法陣のような役割を果たしているのではないでしょうか。

楽器から放たれる音は、その一瞬のみ魂を吹き込まれ、そしてすぐにその残響だけを残して消えていきます。音楽は、それが美しく奏でられる一瞬のみ命を得て、そして地上に降り立ったとたんに消えて行く星の子の命のようなものなのかもしれません。

ファゴットとオーケストラのための協奏曲「炎の資格」では、4本のファゴットから生まれた小さな火種が、やがて周囲の音魂を巻き込み大きな炎となり激しく舞い踊り、そして火が消え入るような独奏ファゴットの音で幕を閉じます。炎はいつしか燃え尽き、そして炎の熱量を受け止めたオーケストラもまたいつかは燃え尽きて、炎を失った体はまた新たな魂の再生を待つ。

薪の束は炎=命を宿らせるか?そして音の結界となるオーケストラはその命を受け止めることができるか?

皆様ぜひとも演奏会会場で、オーケストラと一緒に「炎の資格」を確かめていただければと思います。

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注)写真はベルリンフィルのコンサートホール。ピアノを中心としてオーケストラと観客が全周を囲う配置となっています。すべての人の意識が円の中央に集中したとき、その中心ではどのような空気の密度になっているのでしょうか・・

注)映画「ハウルの動く城」ではあまりはっきりと描写されていませんでしたが、原作では主人公のソフィにも実は魔力がそなわっているとされています。その魔力は「ものに命を吹き込む力」です。映画の最後でカルシファーがハウルの心臓から離れても生き続けられたのを不思議に感じるところですが、確かその直前に「カルシファーが千年生き続けますように」とハウルの心臓に祈りを捧げているシーンがありましたね・・・ 

2014年11月11日 (火)

星の子、死への衝動

前回の記事では、「ハウルの動く城」作中で、流れ星が地上に落ちるとすぐに燃え尽きて死んでしまう、という描写を振り返りました。原作では、マルクルが流れ星(星の子)をつかまえようとすると、流れ星が「いけないよ、僕はこのまま死ぬ事になっているんだ」といって逃げてゆきやがて死んでしまう描写があります。流れ星の命は刹那に失われて行く事が示唆されています。

かくして、子供であったハウルは自らの心臓を流れ星に与えることで星の子の命を生きながらえさせ、そのかわり星の子の魔力を操れるようになりました。

さて、作中のある印象的なシーンを振り返ってみましょう。

荒れ地の魔女が国王に招聘されて城に入った際、魔女は城内の居間に通されますが、それは王室付き魔法使いサリマン先生による罠でした。魔女は星の子の影法師に囲まれて魔力を奪われます。

同じようなシーンがもうひとつ、国王に化けたハウルがサリマン先生と対峙した時、サリマン先生の魔力によってハウルも星の子に回りを囲まれて追いつめられます。

とりわけ、ハウルが星の子に囲まれたシーンでは、星の子が歌を歌いながらハウルとソフィの回りを廻りハウルの魔力を封じ込めようとしました。この歌は外国語のような歌声で歌詞は聞き取れませんが、映画製作のイメージボードではこのような内容の歌とされています。

「ほっといて、ほっといて、僕にさわらないで、死にたいのに、死にたいのに」

ハウルや荒れ地の魔女に宿った星の子の魔力を奪い取るために、多くの星の子たちで廻りを囲って歌うことによって、星の子の魂が本来持っている死への衝動を誘い出している、と解釈できます。

この、星の子が手をつないで周囲を囲む様子、何かに似ていますよね。

そう、子供の頃に遊んだ「かごめかごめ」に似ていませんか?

鬼を真ん中にして結界を巡らせる様子は、星の子の魔力を授かった鬼(ハウル・荒れ地の魔女)から魔力を奪い取る様子に相通じるものが感じられます。

次回は、かごめかごめやハウルの星の子にみる「魔力と結界・死と命の循環」という視点と、楽器と音の関係にみる「肉体に宿す魂の刹那性」という視点を絡めて、この「炎の資格」の考察をまとめてみたいと思います。

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注1)かごめかごめの意味には諸説あります。

注2)この星の子が歌う歌は長調でも短調でもない不思議な調性を持っています。その半音階で動く旋律は、喜びも悲しみもないニュートラルな世界を表現しているように聞こえ、それは死の暗示であるようにも思えます。一方、「かごめかごめ」の歌は「ラーラーシーラーラソミー」という旋律ですが、この旋律にはラを基音とした場合に音の調性の決め手となるドあるいはド♯が含まれていません。しかしラの5度音となるミの音は含まれています。ラとミの組み合わせは短調でも長調でもない空虚5度と呼ばれる和声であり、それは虚無空間のようなニュートラルな響きであるように感じられます。

2014年11月10日 (月)

汝、星を捕らえし者。心なき男。

そのアニメ映画は「ハウルの動く城」です。

以降、映画のネタバレになりますので、映画をまだ見ていない方はどうぞあしからず。

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魔女の呪いで老婆の姿にされたソフィが町を去り、荒れ地でハウルの動く城に遭遇します。

城の中に入ったソフィが最初に見つけたのは、暖炉の中にうごめく火の悪魔カルシファーでした。

カルシファーの正体は流れ星です。流れ星は地上に落ちるとすぐに燃え尽きて死んでしまいますが、カルシファーが地上に落ちたとき、偶然に子供のころのハウルに出会います。ハウルは自分の心臓を与えてカルシファーの命を生きながらえさせ、その代償にハウルはカルシファーの強い魔力を操れるようになりました。これが、ハウルとカルシファーの間に交わされた秘密の契約でしょう。

作中に「オレ(カルシファー)が死んだらハウルだって死ぬんだぞ!」というセリフがありましたね。カルシファーの炎はハウルの魔力、カルシファーが座する薪はハウルの心臓、薪を燃やす炎は肉体に宿る魂でもある、という隠喩がここに見え隠れします。

「炎の資格」は、薪に焼べられた炎がほとばしるような楽曲です。

ファゴットという頑強な肉体に宿る炎のような響き。それは、音楽が魂を孕む瞬間を体現しているのかもしれません。そして、カルシファーの正体である流れ星がそうであるように、炎は美しく地上に降り注いだ後に儚くその命を燃やし尽くしていきます。

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次回は「ハウルの動く城」の中のある印象的なシーンを取り上げて、「炎」とその命の刹那性についてもう少し掘り下げてみましょう。

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