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2014年11月13日 (木)

日常に潜む呪い

前回まで、「炎の資格」についてハウルの動く城を題材に考察をしてみました。では、次に今回の演奏会序曲「魔弾の射手」について見てみましょう。

まずは、オペラ「魔弾の射手」のあらすじ。

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 17世紀、ボヘミアの森。二人の狩人マックスとカスパールは、一人の娘アガーテを愛していた。領主の御前で開催される射撃大会で優勝すれば恋人との結婚と保護官後継が認められるのだが、マックスの射撃の調子が悪い。苦悩するマックスに、カスパールが悪魔と取引することで得られる百発百中の魔弾を使えとそそのかす。誘惑に負けたマックスはついに魔弾を作ることを決意。実はカスパールは自分の命と引き換えに魔弾を得ていた。その尽きかけた寿命を伸ばすために、悪魔ザミエルに捧げる生贄としてマックスをつかわそうと企てたのだった。そして二人は7発の魔弾を得る。カスパールは「7発目はマックスと結婚するアガーテにあててくれ」と悪魔ザミエルに頼むが、ザミエルは「7発目は私の意のままだ。生贄はマックスか、カスパールか、それは最期の魔弾を使った時に決める」と言い残して森の奥へ去る。

 射撃大会の日。領主がマックスに「木の上の白い鳩を撃て」と命じられたマックスは運命の7発目を放つ。魔弾はアガーテの胸元へ向かったが、アガーテは森の隠者からもらった白いバラに守られ助かった。代わりに魔弾に倒れたのはカスパールだった。ザミエルを呪いながらカスパールは息絶える。マックスが領主に魔弾の真相を打ち明けると、領主はマックスに永久追放を命じた。そこに森の隠者が現れ、1年間の試練を与え、その行いが正しければアガーテと結婚させてはどうかと助言する。領主はその言葉に従い、マックスとアガーテは永遠の愛を誓い、村人たちは領主の寛大さを褒め称え大団円となる。

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ざっくり言えば、人を呪えば穴二つという日本の諺通り、 羨望と復讐のために悪魔に魂を売ったカスパール自身が呪いの魔弾に倒れる、というお話しです。

「炎の資格」では「炎に魂が宿る」という切り口で考察しました。考この「魔弾の射手」は「弾丸に悪魔の呪いが宿る」という構図だと言えましょう。

呪いとは何か?
私たちの日常生活で、呪いを身近に感じることなどあまりないような気がします。一方で、「炎の資格」考察の題材とした「ハウルの動く城」でも、呪いはまるで日常茶飯事のように登場します。ソフィを老婆にしたのはカルシファーの言うところの「こんがらがった呪い」であり、城の中のテーブルに焼き付けられた荒れ地の魔女の呪い「汝、星を捕らえ者・・・」のくだりでも、「テーブルの傷は消えても呪いは消えない」と語られています。

では現代の日常ではどうか?

例えば、霊柩車とすれ違うとき何気に親指を隠してしまいますよね?親の死に目に会えないから、という理由からです(少なくとも僕の地元ではそうでした)。

お箸とお箸どうしで食べ物を渡そうとすると母からひどく怒られました。火葬の後に骨を拾うやり方で縁起が悪い、という理由からです。

結婚式や棟上げは暦をみて吉日を選びます。

まあ、これは呪いというよりも作法といったほうが適切かもしれません。文化的背景によって差はあるものの、意外なことに呪いや呪いに準ずるものは日常生活の中に普通に転がっているようです。親指を隠す、縁起の悪いものや悪い日を避けるなどの行動は、呪いや災いを避けるための無意識に行っているものであり、無意識で行うということはすなわち様々な呪いが日常生活に浸透していることの証左であるとも言えます。

しかし、生活の中に呪いが日常的にあるにもかかわらず、日常はそんなに不幸で満ち溢れているわけではありません。不吉なことと同じくらい、吉兆も日常に転がっており、呪いが常に災いを蔓延させているわけではないことに気づきます。それは一体なぜなのでしょうか?

そこで次回は、呪いの持つ二面性について、序曲「魔弾の射手」の楽曲構成と照らし合わせながら考察してみましょう。

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注)幸運のシンボルとされている四葉のクローバー。中世のイギリスでの宗教儀式で神に生贄を捧げる儀式をするとき、四葉のクローバーを持っていると悪魔の姿を見ることができ、呪文を唱えて悪魔を退散させることができる、と信じられていたそうです。
四葉のクローバーは呪術のアイテムだったんですね。

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